私と部落差別

理事 本間肥土美

 一九五三年の夏、私は静岡県の中部にある山間の部落で生まれました。その地域への出入りはトンネルを通らないと出来ませんでした。その後、同和対策事業によりトンネルは切通しになり、閉鎖的な地域も環境的には開かれていきました。静岡県は全国より一〇年ほど早く同和対策事業が始まっていました。

 地域では地場産業のシュロのほうきや竹のほうき、熊手等を家内労働で作り、女性が行商に出て、それぞれの家庭で日銭を稼いでいる生活だったと思います。又、田畑を持ち、農業をしている家庭もありました。

 私は田んぼを買った時に生まれたので「肥える土に美しい」と書いて「ひとみ」と名付けられました。

 幼稚園までの道は遠くて、体も弱かったため、お腹が痛いと言うと先生が家まで自転車で送ってくれました。幼稚園の学芸会の「舌切り雀」では主役のお爺さん役をやりました。父は幼稚園の先生をよく知っていて親しくしていました。幼稚園での生活は大人の優しさに包まれていました。

 私の通った小学校は、一学年に一クラスしかなく、一年生から六年生まで同じクラスメートでした。高学年になると、周りの子どもたちから何となくバカにされているのを感じました。ある時、地域の女の子だけで話をした事がありました。「どうしてこの地域がバカにされているのかお父さんに聞いてみた。」と、一人が言い始めました。その子は「昔はこの地域が貧乏だったから、イナゴとかを捕って食べていたからだ。」とも言いました。私はそんなはずはないと思いました。田舎ではどの地域も貧乏だったし、他の地域との差はなかったと思います。

 私の家は、伊勢湾台風の被害で、稲が全滅してしまい、田畑を売り、別珍・コールテンの加工をする繊毛工場をやっていました。その意味では、私の命名の由来は六年間だけのものでした。地域の中には織物工場や繊毛工場がありました。同じ地域から働きに来てくれる人や、中学を卒業してすぐに働きにきてくれる地域内外の人もいました。

 私は兄二人、弟一人の四人兄弟でした。中学二年生の時、高校生だった二番目の兄から、地域の事について聞かされました。「もう大きくなったから話してもいいだろうと思って言うけど、ここが周りからバカにされている事が分かるだろう。それは社会科で教わった江戸時代の身分制度からきている。吾々の祖先は下層のエタ・ヒニンの身分だったからバカにされるんだ。親父が徳川家康を嫌うのはそういうことからだ。」「自分の生まれを恨むだろう」と言いました。私は恨むどころかそれを聞いてホットしました。地域ごと嫌われるのは、この地域の先祖は犯罪を犯して。島流しのように一定の地域に住まわされたのではないかと勝手に想像していました。両親も言いたくないことだろうと思い、理由を聞けませんでした。「なんだ身分が低かっただけか。」と雲が晴れる様な気持ちでした。「かえって良かったよ。自分に責任のないことで他人から嫌われる人の気持ちがわかって」と、兄に言いました。その後、兄から島崎藤村の「破戒」を読むようにすすめられました。兄は涙なくして読めないと言いましたが、私は読んで涙するどころか島崎藤村に対して腹が立ちました。藤村は差別者だと思いました。

 高校の進学が決まった時、担任の先生から地域の三人が職員室に呼び出されました。「こういう奨学金があるが受けるかどうか親にきいてきてくれ」という話でした。一人の子が「どうしてこの三人だけ?」と先生に聞きました。先生は、「この同和という語に意味があるのではないか」と言葉を濁しました。私は察して他の二人に教えてやりました。こんないい制度があるんだと、喜んで受けました。

 高校へはバス通学でした。ある時、帰りのバスの中で隣のお婆さんと会いました。お婆さんはシュロのほうきを作る材料を大きな風呂敷に包み、その上に腰かけていました。私は自分の席を譲ろうとお婆さんに声を掛けました。「お婆さん私の席に座って」と、すると「結構でございます。どうぞ掛けていて下さい」と横を向いてしまいました。そうだ荷物から離れられないのだろうと思いもう一度声を掛けました。「お婆さん、この荷物を私が見てるから私の席に座って」と、すると又「結構でございます。どうぞ、掛けていて下さい」と丁寧な言葉で断りました。私はとうとうボケたのかと思い、夕飯の時にその話をしました。すると兄が「ほうき売りの人は学生には声を掛けないよ。同じ地域だと周りに悟られないように、わざと他人の振りをしているんだよ」と言われました。同じ地域の子を守ろうとしたお婆さんの愛情は未だに忘れることはできません。どの子も我が子のように想うことをそのお婆さんから教わりました。

 父は私たちに口癖のように言っていました。「お金や家は自分から離れることはあっても、身に着いた教養は死ぬまで自分から離れない。だから勉強しろ。」

と、四人の兄弟は高校以上の大学や専門学校に行かせてもらいました。

 私が二〇歳の頃、同じ高校を卒業して名古屋に嫁いだ地域の女性が、赤ちゃんを連れて返されてきて、ため池で自殺しました。部落の出身であることで、嫁ぎ先の親からいびられて返されたと、両親が話しているのを聞きました。恋愛は命がけです。私は恋愛結婚はしないことに決めました。地域の外にある日蓮宗のお寺の住職から縁談をもちかけられ、磐田へ嫁ぎました。

 一九八三年、磐田市に現在の「ふれあい交流センター」ができました。和裁をしていましたが、夫の父に勧められ、勤務することになりました。同和会とも関わるようになりました。会長の茗荷先生は、行政・運動・隣保館が、三位一体で同じテーブルについて、この問題を解消していこうと常に言われていました。同和問題について詳しく認識できたのは運動団体の研修や隣保館の研修からでした。同和会は静岡県人権・地域改善推進会に受け継がれ、天野会長の下で当事者もそうでない人も一緒に、この問題の解決を目指しています。

京都の山本榮子さんとの出会いも私を大きく変えました。理不尽な事にはきっぱりと発言し、奪われていた文字をご自分で学び直され、今まで当たり前のように乱雑に文字を書いている自分が恥ずかしくなりました。

水平社宣言にある「人間は尊敬するものだ」「祖先を辱め、人間を冒涜してはならぬ」そのことを胸に秘め、社会に呼びかけていきたいと思います。